私には、他人や世界の豊かさに触れれば触れるほど、自分がどこまでも平板で貧しい人間のように感じられる。と同時に、そのような豊かさは、私には強烈な酩酊のような、激しい引力をもって心に去来する。

確かに、貧しくて凝りかまった自分がうち開かれてゆくことは爽快に感じられることもあるが、それを受け入れられない時には耐えがたい嫌悪感を感じてしまう。

うつくしきみどりの貝のまひまひが生殖しておりわが上腕に

そして、自分の足首がかつてあなたの足首でもありえたような気がする、そういう不確かしさへの実感を自分のあらゆる部分に見出すとき、私は自分を守るために他者とのつながりを拒否してしまいたくなる。それはもちろん自分を傷つけることでもあるのだが。

つなぐ手を持たぬ少女が手をつなぐ相手を持たぬ少年とゐる

 

他人を拒否し、自分を損ない続けて幾数十年、空っぽの存在でしかない私という存在に産みつけられた60兆の細胞たちの静けさたるや...

ただ死を延期し続けるだけの存在である私...ああ赦せ過去の私よ、思春期の頃最も憎んでいた大人になってしまったことをどうか赦せ。

 

あをじろくあなたは透けて尖塔の先に季節もまたひとつ死ぬ

海蛇はアクアリウムに揺れておりいかなるnも死を定義せず

 

価値を転倒させるのだ

 自己陶酔の中で自己憐憫に浸っていた、そういう自分を受け容れられることに格別の快感を感じていた。それは自分の醜い部分を含めて丸ごと認めてもらえるような、母性愛と性愛と憧憬をないまぜにしたような愛情だった。相手は自己愛を育む為の交換可能な道具でしかなく、成熟を拒否した完璧な自己愛が熱くて濃い精液を温めていた。

 

 相手に優しくすることは自己防衛でもあった。他人に傷つけられることも、他人を傷つけることも臆病ゆえに避けている僕は、のべつ幕なしに相手を肯定し続けることさえも躊躇せずに行った。無責任に褒めそやしたり支持することで、時に相手を傷つける言葉を何度も投げかけ、しかもそれに無自覚だった。昨晩には、気恥ずかしさから相手を傷つける言葉も投げかけた。

 僕は自分の為だけに相手を好きになり、傷つけることができる陰惨な人格の持ち主であった。

 

 それだけ愛情を渇望しながら、相手には常に不信感を持っているのも事実だった。相手が気遣いやコミュニケーション能力に長けている人であればあるほど、優しくされているのに自分がそうさせてしまっている自覚が強まった。それは相手の中に不確かさや不安定さを確認する作業でもあり、優しい言葉から説得力を奪うことでもあった。なのに、どうしたら愛情を得られるのかを僕はよくわかっていたし、その方法を使い続けた。

 どこか空疎な、手ごたえのない優しさの向こうには、自分を愛する自分の顔が透けて見えた。賭け値なく相手のことが好きであると断言できるとき、それは自分を好きだということでもあった。それ自体は全く悪いことではないはずなのに、そこはかとない後ろ暗さがついてまわるのだった。

 

 僕は一体、どうやったら他人とうまく関係を取り結べるのだろう。どうやったら相手を、自分を本当の意味で愛せるのだろう。

 

 

 僕とAは年齢も来歴も全く違うが、抱えている問題意識と精神構造は多分に似ているところがある。と同時に、安直に自分とAを重ね合わせたり、無責任にわかったふりは絶対にしたくない。増して、恋愛して依存してSEXして、淡泊に関係が終わっていくことは避けたい。自主性を放棄して相手にもたれかかるような恋愛は、とても魅力的だがあまりに貧し過ぎる。

 

 僕は、少なくともAとの間においては、お互いを見つめあうくらいだったら、相手と同じ方向を共に向いていたい。時に相手が耐えられない時や修正すべき点があったときにはフォローし合い、時に別々の目的に向かってハードワークして認めあいたい。そして何より、関係が途切れる時には、尊重と応援を以ってそれを祝福していたい。

 この関係にあてがわれるのは、「友情」という言葉が最も適当なのかもしれない。でも、他人と関係をうまく取り結べない僕たちは、常にお互いに気を遣いあってしまうし、逆にややもすれば一線を越えたくなってしまう。もっと言えば、出会ってそれほど時間が経っていないから、友情すら育まれていないかもしれない。

 

 だけれど、うまく関係を作れなくても、それでいいじゃないか。なぜなら、その「作れなさ」を分かち合うことを僕たちはできるし、それができる程度にはお互いのことをよく知っているのだから。

だから家族でも、恋人でも、友人ですらないオルタナティブな関係をこれから探るのだ。そしてそれを、お互い自身の進歩の為に使うのだ。何なら、信頼のもとにお互いを利用しあうような、「インスタント」で「割り切った」、「搾取しあう」関係を望みたい。転倒させるのだ、世に敷衍している価値を、僕の中に染みついてしまった価値を・・・

ディスコミュニケーション

 先日、1年ぶりくらいにSと会った。Sとは中学からの仲でつきあいが長く、ここ何年かは多忙であることもあって1年に一度くらいの頻度で会っている。頻繁でない分、会うごとに俺の変化をSはよく指摘してくれて、先日は「とても内省的になった」ということだった。自分自身内省的になったとは思うが、それ以上に俺は日ごろコミュニケーションに強い不全感を持っており、彼の言葉はそのコミュニケーション不全をオブラートに包んだ表現にしか聞こえなかった。


 実際、俺はしばしば物事をうまく説明できなかったり、論理の飛躍が著しく多かったりして、Sは辟易しているようだった。確かに、俺は対人恐怖を持っているから、人一倍他人に敏感で自分の振る舞いに非を見出すのだろう。しかしそれを割り引いたとしても、余りに酷かった。

 コミュニケーションに関する強い不全感は約2年前から持っている。具体的には、他人と喋るとき言葉が出てこないどころか、本すら集中して読めないといった状況がずっと続いているのだ。なるほど確かにこれだけコミュニケーションに開かれていなければ、性格はより内省的になる。そういった意味で言えば、Sの言葉は端的に当たっているのかもしれない。


 Sと昼から夕方までずっと喋り続け、その後Yと連絡が取れたのでビデオチャットをつなぎ、3人で数時間話をした。YはSの同級生で、心を病んで去年に院を退学、現在は山梨の実家で療養しているという。それで、Yが高校で病んで辞めた俺が二人の間で話題にのぼり、今度話してみたいということでこの場が持たれたのだった。

 

 話を聞くに、Yはいくつかの深刻な出来事が重なって心を病んだということだった。
少なくとも俺の身に同様のことが起きたら、きっと耐えられず自殺していたと確信できるほど、深刻な内容だった。それでも、Yは苦しみながらも必死に耐えているようだった。事実、ブログを100エントリ以上書いたり、過去の出来事を何ページもノートに書きつけたりしているそうだ。もともとSはバイタリティーが高いとうこともあるのだろうし、あるいは書かずにはいられないののかもしれない。

 いずれにせよ、Yは健康を希求しその為に手を動かし必死に生きようとしていることが伝わってきた。もちろん、それは苦しみの深さの裏返しでもあるのだが。

 


 おそらく俺は今、Yほど状態が悪くはない。だから、ことさら自分の状態を良くしようと努力することはない・・・と思って、断じて違うことに気がついた。なぜなら、コミュニケーションに強い不全感を持っているだけでなく、実際それが深刻なレベルであることが今日明らかになったからだった。

 

 なぜ自分がこんな状態になったか、俺は自覚があった。俺が精神の安定を実感し始めたのは4年前だ。不安定だった頃は行動的で恋愛にも積極的、悪目立ちして社会性もまるでないというような状態だったが、やがて安定するようになると言動は控えめになっていった。それまでの自分を客観視できるようになり、学校の人間関係を生き抜く為もあって、意識的に言動を控えるようになった気がする。
 実際、そうすることで心を揺さぶられる機会が少なくなり、より心も安定していった。こうして自分の殻に閉じこることを選択した俺は、その代償として他人とまともにコミュニケーションができなくなってしまった、という訳だ。

 

 俺は今一度Sの「とても内省的になった」という言葉を思い出すとともに、強烈な恐怖に襲われた。他人と十分にコミュニケーションが取れないことは確かに反外交的だと言えるが、もしかして内省的ですらないのではないかと思ったからだ。つまり、コミュニケーションが取れないのではなくて、単純に俺はもう物を考えなくなってしまっただけなのではないか、俺の頭の中は他人には観察しえないから、コミュニケーションが取れないのを見てSは「内省的になった」と思ったのではないか。

 そうなるとこれは重大だ。俺から考えることを取り除くと、一体何が残る?俺は俺自身に価値を感じないし、きっと他人も同じだろう。死を回避する為に俺は思考を捨てたのだ、考えることなくただ生き続けるゾンビや廃人に俺は今成り果てようとしているのだ。

 そして何より、俺はそれに気づくどころか満足気に自分を作り替えていたのだ。

 


 結局終電が無くなり、Sの家に泊まらせてもらった。眠れずに徹夜した翌日、家に帰ると声をあげて泣いた。泣き疲れた後で、PCに向かって思うがままに理屈を書き連ねた。昨夜のYを思い出し、そうだ何か書いてみよう、喋れないなら書くことを試そうと一心不乱に書き続けた。すると、意外と一日中書いてもまだ書きたりないくらいたくさん書くことができた。

 俺は心の底から安堵し、別のフォーマットを試した。一時期ハマっていた作曲は以前と同様にイマイチ、読書は特定の環境下だったら以前程ではないが読めないことはなかった。

 嬉しかった。これで読み書きができること、俺の脳はまだ死んでいないことが確かめられた。翌日、勇んで図書館に行って本を借りた。以前数ページしか読めずにそのまま返した本だ。


 Yは研究が心から好きなようだった。だから、研究の場を奪われたこと、研究の場ですら適応することができなかったことをとても気に病んでいるようだった。「今はもうやりたいことが何もない」とそこはとない虚脱感を漂わせて言っていたことが印象に残る。

 Yと俺は健康のレベルも病態も求めるものも何もかもが違う。だが、自分を殺してしまいそうなほど生きていくうえで価値を置いているものがあって、それゆえに苦しんでいる点では同じはずだ。


 俺はもう障害者だ。健康を目指すステージには最早いないし、障害は自分を形作る要素のひとつになっている。そのことを俺は決して絶望視しない。俺は俺であるゆえに苦しむとしても、俺でなくなった命を生きるくらいなら、自殺してしまいたい。
 俺は自分の実存が辛うじて保たれていることと、実存について確かめることができたから、あの夜は苦しくって価値の高い、いい夜だったのだろう。

 

 ではYは?知る由もないし、何もしたくない。Yを殺すのも救うのもY自身だろう。ただ、真空の向こうに星を見るように、眼差すことぐらいは俺にはできる。そしてそれこそが――もちろん独善的な――俺にとっての最大の応援だ。俺のコミュニケーション不全がちゃんと治っていることを祈る。 

 

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Dang Dang Ki Ni Naru - Yuma Nakamura

 

 

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ダーティペア OP

 

 

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Junko Ohashi - Dancing

 

 

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BaBe - Give Me Up

 

 

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横山 輝一 Cheap

 

 

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Especia - Aviator

 

 

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Especia - ミッドナイトConfusion

 

 

 

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BOO feat MURO - SMILE IN YOUR FACE

 

 

 

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Kaoru Akimoto - Dress Down

 

 

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Carole Bayer Sager - It's The Falling In Love

 

 

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スーパーガール - マジカルナイト

 

 

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Love Unlimited - I Can't Let Him Down

 

 

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Webster Lewis - Do It With Style

 

 

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MACINTOSH PLUS - リサフランク420 / 現代のコンピュー

 

 

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MIki Matsubara - 真夜中のドア / Stay with me

 

 

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真夜中のジョーク - 間宮貴子(Takako Mamiya)

 

 

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McFadden & Whitehead - Ain't No Stoppin' Us Now

 

 

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水星(リズムステップループス_I'm at ホテルオークラ_MIX)

 

 

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マクロスMACROSS 82-99 - Fun Tonight

 

 

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I Wouldn't Change A Thing - Coke Escovedo

 

 

メンヘラの夜の精密描写

1:00

 体をもう2時間も寝かせているのに、いまだに体は眠りに落ちない。未解決な夜である。私はのっそりと体を引き起こして、誰も居ないリビングへ降りて水を飲む。暗い部屋に鈍く光るシンク、そこへ滴り落ちる水・・・妙な艶めかしさを感じつつ水を口に含むが、何か生ぬるく、不満足なまままた布団へ体を押し入れた。

2:00

 深夜二時、音もない自室で私の頭脳はスパコンばりにフル回転している。それは夜半にひとり震える冷蔵庫に似ている。なるほど私もまた排熱がうまくいかないタチである。やがて私はうっすらと目に涙を浮かべて窓際に佇み、どことなく街を見渡す。そして結露した銀サッシに手をやり、そのひんやりとした感触にすこしだけ誇らしさを覚える。「わたしは、不眠。」心なかで小さくつぶやいた後、折り紙の鶴をしまうように私は丁寧に言葉を飲み下す。そのとき、私はきっと今日は眠れることを確信するのであった。

3:00

 しかし体はまだ、落ちない。私はまたも起きだして、外をすこし散歩することにした。冷え切らぬ夏夜の住宅街をぐるぐる歩き回ると、足裏が体重で潰れる感触がして心地よかった。コンビニはこの時間でも正しく光を保っていて、寝静まった街で、私は私が誰でもない存在になっていくような気がした。やっと機械になれた、そんな気がした。

 けれどまた、布団に入ってからは寝つけなかった。寝ようとすればするほど、昔の怒られた思い出や、恥ずかしい出来事をかわるがわる思い出してしまった。仰向けの私は、まるで頭蓋のプラネタリウムに映し出されたそれらを見上げているようであった。

 凝り固めた思い出を細胞液中に浮かべた半透明の脳細胞が、私の頭蓋にはみっしりと産みつけられていて、私はもはやそのひとつひとつを覗き見ることが止められなくなっていた。それは遠い昔の思い出なのに、とても精密で、なにより今ここで起きているかのような差し迫るリアルさがあった。胸を締め付けられるような鋭い痛みと興奮への没入は、私という存在を奪い去ってくれるかのようなスリルをも味わせた。

 

 

 不健康な行為であることはわかっていたが、そうやって毎晩過ごしていると、ついに私の精神は発振してしまった。そう、私はついに冷蔵庫になれたのだ。夜半にけもののように震える、心なんて存在しないあの冷蔵庫になれたのだ。製氷皿に溶けることない氷を浮かべながら・・・

「個人化」がもたらすジレンマ

1.再帰的近代化と他者性

 A・ギデンズによれば、現代とは「再帰的近代化」が起きている時代、つまり「再帰的近代」である。ここで、「再帰的」とは、行為そのものが行為の対象に含まれていることを言う。つまり、「再帰的近代」とは、近代化の対象に社会構造そのものが含まれているような社会を表す。(ギデンズ、2009)

再帰的近代」である現代では、科学技術や資本主義の進展によって、伝統や規範、自然といった社会を形づくるものまでもが近代化の対象になっている。したがって、現代は、選択・操作の対象が極限にまで押し広げられた社会だと言えるだろう。

 

2.「個人化」

 U・ベックは、「再帰的近代」である現代ではリスク社会化が顕著にすすんでいることを指摘したうえで、「個人化」という現象が同様に顕著だとしている。「個人化」とは、

学校・階級・企業などさまざまな中間集団から個人が解き放たれることにより、個人による自己選択の余地が拡大するとともに、これらの集団によって標準化さていた個人の人生が多様化し、失業や離婚など人生上のさまざまなリスクを個人が処理することを余儀なくされるという、一連の現象を表すものである(鈴木、2015)(注1)

 そして、「個人化」が顕著にすすんだ社会では、中間集団や社会制度といった社会的所与が解体され、個人は選択の自由と引き換えに自己責任・リスクを負い、また、あらゆる選択を迫られるなる。同様に、個人は帰属意識やアイデンティティを失い、「自分とは何者か」「何者になるか」ということを自発的に構成し続なければならない。(同)

 

3.「ソリッド・モダニティ」と「リキッド・モダニティ」

 G・バウマンは、再帰的近代以前を「ソリッド・モダニティ」、以後を「リキッド・モダニティ」と呼ぶ。「ソリッド・モダニティ」では強固な中間集団に個人が埋め込まれているために社会や個人が固定的であり、一方「リキッド・モダニティ」では中間集団が弱体化し個人が解き放たれているために社会や個人は流動的である。

 そして、「ソリッド」から「リキッド」への変化は、共同体の生成・消滅の速度や婚姻・離婚の回数というような構造的な変化だけでなく、中間集団や規範、伝統といったものが再帰的な選択の対象となることで確定的でなくなるということでもある。したがって、「リキッド」である現代では、あらゆることについて「一貫性を維持する」ことが困難であるといえる。(バウマン、2001)

 

4. 「個人化」のジレンマ

 以上に見たように、「個人化」がすすんだ社会では、あらゆることが選択の対象になる一方で、選択するところの個人はアイデンティティやライフコースを自発的に構成しなければならず、しかも、それらは一貫的でない。故に、この世はハードモードで、あたしゃ生きていくのが辛いよ。

 

5. 参考文献

Amazon.co.jp: 個人化するリスクと社会: ベック理論と現代日本: 鈴木 宗徳: 本

Amazon.co.jp: カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書): 鈴木 謙介: 本

Amazon.co.jp: リキッド・モダニティ―液状化する社会: ジークムント バウマン, Zygmunt Bauman, 森田 典正: 本

Amazon.co.jp: 不可能性の時代 (岩波新書): 大澤 真幸: 本

徹底歌詞解剖 『私以外私じゃないの』とコカ・コーラCM

 先日、何がきっかけだったか、ゲスの極み乙女。の『私以外私じゃないの』を聴いた。歌詞にすごく共感した僕は、この曲がコカ・コーラのCMに使われていると知ってYouTubeで観てみたのだが、どうも歌詞のメッセージとCMのコンセプトとが真逆になっているように思われた。そこで、曲とCMとの違いについて考察してみたい。

 

 

1.1『私以外私じゃないの』とはどんな曲か

 ゲスの極み乙女。はJロックの最上位に君臨するといっていいくらいの人気バンドだ。この『私以外私じゃないの』や『猟奇的な私にキスをして』などの代表曲は、意識しなくても耳に入ってくるし、音楽に詳しくはないけれど特徴的なバンド名だけは何となく知っている、という人も多いのではないだろうか。

 

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 言うまでもなく、このバンドの特徴のひとつは極端な言葉選びだ。バンド名しかり、先ほどの二曲のタイトルしかり、そのフレーズがサビで歌われることしかり。

そういった極端な歌詞がキャッチーなメロディ(※1)にのって流れてくるとき、「そこに生まれる明らかな違和感とそれに反比例するように湧き上がってくる気持ちよさ」(ゲスの極み乙女。『私以外私じゃないの』 - 音楽だいすきクラブ)を私たちは感じる。「クセになる」「耳に残る」という感想はきっとここからくるのだろうし、曲の印象の強さは、短時間で流れるCMにうってつけだろう。

 

私以外私じゃないの - ゲスの極み乙女。 - 歌詞 : 歌ネット

 

 歌詞を見てみると、主人公が苦しみながらもアイデンティティを獲得するというストーリーになっていることがわかる。 

 最初のパートでは、アイデンティティに悩む日々が綴られるように滑らかな口調で歌われ、パートの終わりではその日々が終わるように一気にサビへ駆け上がる。そして、サビでは高らかに宣言するような調子で、それまでの苦悩の日々を克服した喜びが一気に吹き出すようだ。あのサビが耳に残るのは、起伏に富んだ歌詞と曲調とが、共に、一気に高まりに達するからというのが理由のひとつと言えるだろう。

 

 

1.2 歌詞のストーリー

 

 では、その起伏に富んだ歌詞をより詳しく見てみる。それはこんなストーリーだ。

 

冴えない顔で泣いちゃった夜を重ねて 絶え間のない暮らしを今日も重ねた

良くなりそうな明日に期待する度に 何度も今日を鏡台の裏に隠した

映る私は何回も瞬きしては 変わる心に簡単に動揺したわ

 

 「私」は、自分に満足できない苦悩の日々を過ごしている。ありのままの「私」に目を背け、ただただ泣いて、いつか「今のダメな私ではない、私以外の私」になることを夢見ている。

 つまり、ここでの「私」はあるひとつの理想を持っているのではなく、ただ、今のダメな自分を捨て去りたいだけである。鏡にありのままの「私」を見ず、「私以外の私」を映しても、それは見つからないし、なれもしない。まるで自分探しに躍起になっている人のように。

 

だけど意外と目を瞑った瞬間に 悪くないなって思いながら明日を悟ったんだ

 

私以外私じゃないの 当たり前だけどね

だから 報われない気持ちも整理して 生きていたいと思うのよ

私以外私じゃないの 誰も替われないわ

今日を 取り出して逃げないようにして 明日に投げ込んで 目を開けたんだ

 

 そんな「私」も、目をつむり自分を直視することで、ありのままの「私」を受け入れることができた。そして自分とは、また他人とは交換不可能なものだと気づき、「私以外私じゃない」とはっきりと自覚する。だからこそ、「私」は誰かになり替わろうとするのではなく、目を背けていたありのままの「私」と向き合って、少しずつ自分を変えていかなければいけないのだ。

 

 

2. コカ・コーラCMのコンセプト

 

 さて、この『私以外私じゃないの』は、コカ・コーラのネームボトルキャンペーン第二弾のCM曲に採用されている。それは以下のようなものだ。

 

コカ・コーラは昨年4月にも、コカ・コーラおよびコカ・コーラ ゼロの300ml・500ml・1.5Lペットのラベルに250種類以上の名前をデザインした「ネームボトル」を展開。店頭で自分の名前を探し、SNSで写真をシェアする人が多く見られ、累計販売本数が2.5億本を超えるヒットを記録した。
今回のネームボトルは、昨年の企画をさらにブラッシュアップして実施するもの。自分の名前に加え、友人・家族の名前を見つけたときに、両者の関係を象徴する記号「♡」「&」「VS」を使ってシェアし、人のつながりを演出することができるデジタルコンテンツを提供する。

 

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 このように、ネームボトルは他人と共有する(つながる)アイテムとして売り出されている。そして、第一弾ネームボトルはヒットし、第二弾では更にこのコンセプトが推し進められている。それに伴って打たれたこのCMも、やはり同じコンセプトで、友人や恋人と一緒にネームボトルを飲むシーンが描かれている。

 

 だが、だとすれば、「つながり」がコンセプトのCMに、なぜ『私以外私じゃないの』という内省的な曲が選ばれたのだろうか。

 

 

3.反転する「私」

 

 言うまでもなく、この曲はかなりヒット曲であり、また前述のとおり耳に残るからこそCMにうってつけだったのだろう。また、サビ部分だけでは曲全体のストーリーは分からないのだから、歌詞は意味のあるものとして受け取られないかもしれない。しかし、サビのワンフレーズとネームボトルは、次のようにも読み替えられるのではないないだろうか。

 

 他人と「つながる」ためのアイテムであるネームボトルだが、CMでは「自分の名前が入ったネームボトルを一緒に飲む」というつながり方が提示される。

もちろん、CMで登場人物がネームボトルの影に変わってしまうように、ネームボトルは「つながり」のなかの人物を表している。それを共有するということは、ただモノを共有することで「つながる」というだけでなく、自分や相手が「つながり」のなかに居ることを示し確認しあう、とてもつながり作用の強いコミュニケーションだと言えるだろう。

また、極端に言えば、ネームボトルを通じたコミュニケーションとは、間接的に私たちが私たち自身を共有することで、より他者との同一化を図ろうとする再帰的なコミュニケーションだとも言えるだろう。

 

 だとすると、そのようなCMに流れる『私以外私じゃないの』は、「(つながりのなかにいる)私以外私じゃないの」と読み替えることができる。この曲の歌詞は、このCMにおいては他者とつながることへの喜びや高揚を表しているのだ。

だが、この曲のストーリーはあくまで「私」が私以外の誰にもなり替われないことを思い知る、つまり「私」と他者の絶対的な差異に気づくことでアイデンティティを獲得するというものであった。

皮肉にも、この曲は全く姿を変えることなく、曲とCMとで真逆のとらえ方がされているのだ。