「個人化」がもたらすジレンマ

1.再帰的近代化と他者性

 A・ギデンズによれば、現代とは「再帰的近代化」が起きている時代、つまり「再帰的近代」である。ここで、「再帰的」とは、行為そのものが行為の対象に含まれていることを言う。つまり、「再帰的近代」とは、近代化の対象に社会構造そのものが含まれているような社会を表す。(ギデンズ、2009)

再帰的近代」である現代では、科学技術や資本主義の進展によって、伝統や規範、自然といった社会を形づくるものまでもが近代化の対象になっている。したがって、現代は、選択・操作の対象が極限にまで押し広げられた社会だと言えるだろう。

 

2.「個人化」

 U・ベックは、「再帰的近代」である現代ではリスク社会化が顕著にすすんでいることを指摘したうえで、「個人化」という現象が同様に顕著だとしている。「個人化」とは、

学校・階級・企業などさまざまな中間集団から個人が解き放たれることにより、個人による自己選択の余地が拡大するとともに、これらの集団によって標準化さていた個人の人生が多様化し、失業や離婚など人生上のさまざまなリスクを個人が処理することを余儀なくされるという、一連の現象を表すものである(鈴木、2015)(注1)

 そして、「個人化」が顕著にすすんだ社会では、中間集団や社会制度といった社会的所与が解体され、個人は選択の自由と引き換えに自己責任・リスクを負い、また、あらゆる選択を迫られるなる。同様に、個人は帰属意識やアイデンティティを失い、「自分とは何者か」「何者になるか」ということを自発的に構成し続なければならない。(同)

 

3.「ソリッド・モダニティ」と「リキッド・モダニティ」

 G・バウマンは、再帰的近代以前を「ソリッド・モダニティ」、以後を「リキッド・モダニティ」と呼ぶ。「ソリッド・モダニティ」では強固な中間集団に個人が埋め込まれているために社会や個人が固定的であり、一方「リキッド・モダニティ」では中間集団が弱体化し個人が解き放たれているために社会や個人は流動的である。

 そして、「ソリッド」から「リキッド」への変化は、共同体の生成・消滅の速度や婚姻・離婚の回数というような構造的な変化だけでなく、中間集団や規範、伝統といったものが再帰的な選択の対象となることで確定的でなくなるということでもある。したがって、「リキッド」である現代では、あらゆることについて「一貫性を維持する」ことが困難であるといえる。(バウマン、2001)

 

4. 「個人化」のジレンマ

 以上に見たように、「個人化」がすすんだ社会では、あらゆることが選択の対象になる一方で、選択するところの個人はアイデンティティやライフコースを自発的に構成しなければならず、しかも、それらは一貫的でない。故に、この世はハードモードで、あたしゃ生きていくのが辛いよ。

 

5. 参考文献

Amazon.co.jp: 個人化するリスクと社会: ベック理論と現代日本: 鈴木 宗徳: 本

Amazon.co.jp: カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書): 鈴木 謙介: 本

Amazon.co.jp: リキッド・モダニティ―液状化する社会: ジークムント バウマン, Zygmunt Bauman, 森田 典正: 本

Amazon.co.jp: 不可能性の時代 (岩波新書): 大澤 真幸: 本

徹底歌詞解剖 『私以外私じゃないの』とコカ・コーラCM

 先日、何がきっかけだったか、ゲスの極み乙女。の『私以外私じゃないの』を聴いた。歌詞にすごく共感した僕は、この曲がコカ・コーラのCMに使われていると知ってYouTubeで観てみたのだが、どうも歌詞のメッセージとCMのコンセプトとが真逆になっているように思われた。そこで、曲とCMとの違いについて考察してみたい。

 

 

1.1『私以外私じゃないの』とはどんな曲か

 ゲスの極み乙女。はJロックの最上位に君臨するといっていいくらいの人気バンドだ。この『私以外私じゃないの』や『猟奇的な私にキスをして』などの代表曲は、意識しなくても耳に入ってくるし、音楽に詳しくはないけれど特徴的なバンド名だけは何となく知っている、という人も多いのではないだろうか。

 

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 言うまでもなく、このバンドの特徴のひとつは極端な言葉選びだ。バンド名しかり、先ほどの二曲のタイトルしかり、そのフレーズがサビで歌われることしかり。

そういった極端な歌詞がキャッチーなメロディ(※1)にのって流れてくるとき、「そこに生まれる明らかな違和感とそれに反比例するように湧き上がってくる気持ちよさ」(ゲスの極み乙女。『私以外私じゃないの』 - 音楽だいすきクラブ)を私たちは感じる。「クセになる」「耳に残る」という感想はきっとここからくるのだろうし、曲の印象の強さは、短時間で流れるCMにうってつけだろう。

 

私以外私じゃないの - ゲスの極み乙女。 - 歌詞 : 歌ネット

 

 歌詞を見てみると、主人公が苦しみながらもアイデンティティを獲得するというストーリーになっていることがわかる。 

 最初のパートでは、アイデンティティに悩む日々が綴られるように滑らかな口調で歌われ、パートの終わりではその日々が終わるように一気にサビへ駆け上がる。そして、サビでは高らかに宣言するような調子で、それまでの苦悩の日々を克服した喜びが一気に吹き出すようだ。あのサビが耳に残るのは、起伏に富んだ歌詞と曲調とが、共に、一気に高まりに達するからというのが理由のひとつと言えるだろう。

 

 

1.2 歌詞のストーリー

 

 では、その起伏に富んだ歌詞をより詳しく見てみる。それはこんなストーリーだ。

 

冴えない顔で泣いちゃった夜を重ねて 絶え間のない暮らしを今日も重ねた

良くなりそうな明日に期待する度に 何度も今日を鏡台の裏に隠した

映る私は何回も瞬きしては 変わる心に簡単に動揺したわ

 

 「私」は、自分に満足できない苦悩の日々を過ごしている。ありのままの「私」に目を背け、ただただ泣いて、いつか「今のダメな私ではない、私以外の私」になることを夢見ている。

 つまり、ここでの「私」はあるひとつの理想を持っているのではなく、ただ、今のダメな自分を捨て去りたいだけである。鏡にありのままの「私」を見ず、「私以外の私」を映しても、それは見つからないし、なれもしない。まるで自分探しに躍起になっている人のように。

 

だけど意外と目を瞑った瞬間に 悪くないなって思いながら明日を悟ったんだ

 

私以外私じゃないの 当たり前だけどね

だから 報われない気持ちも整理して 生きていたいと思うのよ

私以外私じゃないの 誰も替われないわ

今日を 取り出して逃げないようにして 明日に投げ込んで 目を開けたんだ

 

 そんな「私」も、目をつむり自分を直視することで、ありのままの「私」を受け入れることができた。そして自分とは、また他人とは交換不可能なものだと気づき、「私以外私じゃない」とはっきりと自覚する。だからこそ、「私」は誰かになり替わろうとするのではなく、目を背けていたありのままの「私」と向き合って、少しずつ自分を変えていかなければいけないのだ。

 

 

2. コカ・コーラCMのコンセプト

 

 さて、この『私以外私じゃないの』は、コカ・コーラのネームボトルキャンペーン第二弾のCM曲に採用されている。それは以下のようなものだ。

 

コカ・コーラは昨年4月にも、コカ・コーラおよびコカ・コーラ ゼロの300ml・500ml・1.5Lペットのラベルに250種類以上の名前をデザインした「ネームボトル」を展開。店頭で自分の名前を探し、SNSで写真をシェアする人が多く見られ、累計販売本数が2.5億本を超えるヒットを記録した。
今回のネームボトルは、昨年の企画をさらにブラッシュアップして実施するもの。自分の名前に加え、友人・家族の名前を見つけたときに、両者の関係を象徴する記号「♡」「&」「VS」を使ってシェアし、人のつながりを演出することができるデジタルコンテンツを提供する。

 

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 このように、ネームボトルは他人と共有する(つながる)アイテムとして売り出されている。そして、第一弾ネームボトルはヒットし、第二弾では更にこのコンセプトが推し進められている。それに伴って打たれたこのCMも、やはり同じコンセプトで、友人や恋人と一緒にネームボトルを飲むシーンが描かれている。

 

 だが、だとすれば、「つながり」がコンセプトのCMに、なぜ『私以外私じゃないの』という内省的な曲が選ばれたのだろうか。

 

 

3.反転する「私」

 

 言うまでもなく、この曲はかなりヒット曲であり、また前述のとおり耳に残るからこそCMにうってつけだったのだろう。また、サビ部分だけでは曲全体のストーリーは分からないのだから、歌詞は意味のあるものとして受け取られないかもしれない。しかし、サビのワンフレーズとネームボトルは、次のようにも読み替えられるのではないないだろうか。

 

 他人と「つながる」ためのアイテムであるネームボトルだが、CMでは「自分の名前が入ったネームボトルを一緒に飲む」というつながり方が提示される。

もちろん、CMで登場人物がネームボトルの影に変わってしまうように、ネームボトルは「つながり」のなかの人物を表している。それを共有するということは、ただモノを共有することで「つながる」というだけでなく、自分や相手が「つながり」のなかに居ることを示し確認しあう、とてもつながり作用の強いコミュニケーションだと言えるだろう。

また、極端に言えば、ネームボトルを通じたコミュニケーションとは、間接的に私たちが私たち自身を共有することで、より他者との同一化を図ろうとする再帰的なコミュニケーションだとも言えるだろう。

 

 だとすると、そのようなCMに流れる『私以外私じゃないの』は、「(つながりのなかにいる)私以外私じゃないの」と読み替えることができる。この曲の歌詞は、このCMにおいては他者とつながることへの喜びや高揚を表しているのだ。

だが、この曲のストーリーはあくまで「私」が私以外の誰にもなり替われないことを思い知る、つまり「私」と他者の絶対的な差異に気づくことでアイデンティティを獲得するというものであった。

皮肉にも、この曲は全く姿を変えることなく、曲とCMとで真逆のとらえ方がされているのだ。

引きこもりが息する夜に

 二週間ほど前、僕は僕をばっくれた。

僕は医療系専門学校に通っている22歳だ。今の時期、僕らの学科ではそろそろ就活がピークになるというのに、どういう訳か学校を休み始めてしまった。

学校を休み始めると、バイトに行くのも億劫になる。友達とライブに行く約束も、歯医者も、生活のなにもかもが億劫になって、今はこうして実家のPCとベッドを二週間ほど往復している。そして、「ああ、平和だ」と思う。

 

 確かに、僕は医療人となって誰かの命をこの手で直接救うんだと思っていたし、バイト先は本当にいい人ばかりだった。どうしても就職したい病院もあって、先生にOB訪問したいと持ちかけたこともあった。

でも、僕を駆動するエンジンみたいなものが、二週間前、ぶっつりと切れてしまったのだ。だから僕は、僕に関してこれだけよそよそしくなれるし、ばっくれるという形で傷つけることができる。

 

 

 今振り返ると、目的にむけて何かに取り組んだり、友人と遊んだり、近所の人に頭を下げたり、そういったことがすべからく不毛に思える。生活することがひどく能動的な行為に思える。じゃあなぜ、人は多少の苦しみを伴っても生活し続けるんだろう。もしそのことに理由がないのなら、生活することをやめてもいいはずだ。自分を駆動するエンジンを止めても。

 

 10代のとき、「君たちは真っ白なキャンバスだ」と大人は言った。自己実現したいという気持ちは、今の自分を積極的に否定することでもあったけれど、それがすがすがしかった。

今、22歳。キャンバスに絵を描き始めてはっきりとわかることは、生きがいやアイデンティティ、承認といったものは、自分一人で漸次調達しながら生きていかなければならないということだ。それは、ひどく自由で、なのに何か苦しくて、不毛な作業だ。じゃあ、それなら...

 

 明日も学校を休むだろう。とはいえ、学校が始まる時間に、心に鈍い痛みを覚えるのだろうけど。