引きこもりが息する夜に

 二週間ほど前、僕は僕をばっくれた。

僕は医療系専門学校に通っている22歳だ。今の時期、僕らの学科ではそろそろ就活がピークになるというのに、どういう訳か学校を休み始めてしまった。

学校を休み始めると、バイトに行くのも億劫になる。友達とライブに行く約束も、歯医者も、生活のなにもかもが億劫になって、今はこうして実家のPCとベッドを二週間ほど往復している。そして、「ああ、平和だ」と思う。

 

 確かに、僕は医療人となって誰かの命をこの手で直接救うんだと思っていたし、バイト先は本当にいい人ばかりだった。どうしても就職したい病院もあって、先生にOB訪問したいと持ちかけたこともあった。

でも、僕を駆動するエンジンみたいなものが、二週間前、ぶっつりと切れてしまったのだ。だから僕は、僕に関してこれだけよそよそしくなれるし、ばっくれるという形で傷つけることができる。

 

 

 今振り返ると、目的にむけて何かに取り組んだり、友人と遊んだり、近所の人に頭を下げたり、そういったことがすべからく不毛に思える。生活することがひどく能動的な行為に思える。じゃあなぜ、人は多少の苦しみを伴っても生活し続けるんだろう。もしそのことに理由がないのなら、生活することをやめてもいいはずだ。自分を駆動するエンジンを止めても。

 

 10代のとき、「君たちは真っ白なキャンバスだ」と大人は言った。自己実現したいという気持ちは、今の自分を積極的に否定することでもあったけれど、それがすがすがしかった。

今、22歳。キャンバスに絵を描き始めてはっきりとわかることは、生きがいやアイデンティティ、承認といったものは、自分一人で漸次調達しながら生きていかなければならないということだ。それは、ひどく自由で、なのに何か苦しくて、不毛な作業だ。じゃあ、それなら...

 

 明日も学校を休むだろう。とはいえ、学校が始まる時間に、心に鈍い痛みを覚えるのだろうけど。