価値を転倒させるのだ

 自己陶酔の中で自己憐憫に浸っていた、そういう自分を受け容れられることに格別の快感を感じていた。それは自分の醜い部分を含めて丸ごと認めてもらえるような、母性愛と性愛と憧憬をないまぜにしたような愛情だった。相手は自己愛を育む為の交換可能な道具でしかなく、成熟を拒否した完璧な自己愛が熱くて濃い精液を温めていた。

 

 相手に優しくすることは自己防衛でもあった。他人に傷つけられることも、他人を傷つけることも臆病ゆえに避けている僕は、のべつ幕なしに相手を肯定し続けることさえも躊躇せずに行った。無責任に褒めそやしたり支持することで、時に相手を傷つける言葉を何度も投げかけ、しかもそれに無自覚だった。昨晩には、気恥ずかしさから相手を傷つける言葉も投げかけた。

 僕は自分の為だけに相手を好きになり、傷つけることができる陰惨な人格の持ち主であった。

 

 それだけ愛情を渇望しながら、相手には常に不信感を持っているのも事実だった。相手が気遣いやコミュニケーション能力に長けている人であればあるほど、優しくされているのに自分がそうさせてしまっている自覚が強まった。それは相手の中に不確かさや不安定さを確認する作業でもあり、優しい言葉から説得力を奪うことでもあった。なのに、どうしたら愛情を得られるのかを僕はよくわかっていたし、その方法を使い続けた。

 どこか空疎な、手ごたえのない優しさの向こうには、自分を愛する自分の顔が透けて見えた。賭け値なく相手のことが好きであると断言できるとき、それは自分を好きだということでもあった。それ自体は全く悪いことではないはずなのに、そこはかとない後ろ暗さがついてまわるのだった。

 

 僕は一体、どうやったら他人とうまく関係を取り結べるのだろう。どうやったら相手を、自分を本当の意味で愛せるのだろう。

 

 

 僕とAは年齢も来歴も全く違うが、抱えている問題意識と精神構造は多分に似ているところがある。と同時に、安直に自分とAを重ね合わせたり、無責任にわかったふりは絶対にしたくない。増して、恋愛して依存してSEXして、淡泊に関係が終わっていくことは避けたい。自主性を放棄して相手にもたれかかるような恋愛は、とても魅力的だがあまりに貧し過ぎる。

 

 僕は、少なくともAとの間においては、お互いを見つめあうくらいだったら、相手と同じ方向を共に向いていたい。時に相手が耐えられない時や修正すべき点があったときにはフォローし合い、時に別々の目的に向かってハードワークして認めあいたい。そして何より、関係が途切れる時には、尊重と応援を以ってそれを祝福していたい。

 この関係にあてがわれるのは、「友情」という言葉が最も適当なのかもしれない。でも、他人と関係をうまく取り結べない僕たちは、常にお互いに気を遣いあってしまうし、逆にややもすれば一線を越えたくなってしまう。もっと言えば、出会ってそれほど時間が経っていないから、友情すら育まれていないかもしれない。

 

 だけれど、うまく関係を作れなくても、それでいいじゃないか。なぜなら、その「作れなさ」を分かち合うことを僕たちはできるし、それができる程度にはお互いのことをよく知っているのだから。

だから家族でも、恋人でも、友人ですらないオルタナティブな関係をこれから探るのだ。そしてそれを、お互い自身の進歩の為に使うのだ。何なら、信頼のもとにお互いを利用しあうような、「インスタント」で「割り切った」、「搾取しあう」関係を望みたい。転倒させるのだ、世に敷衍している価値を、僕の中に染みついてしまった価値を・・・